すえてなたー

小説の更新のお知らせなどを書いています。

暮れ残り

旧作、暮れ残りを書き直しましたので、以外、投稿しておきます。


『暮れ残り』

 夏の暮れ残りというものは幻想だった。体温も匂いもない群青の色が浮遊感を抱いて山の背にぼんやりと漂っている。一滴絵の具を垂らした色水のように頭の中に広がって、窒素や酸素のような味のない存在として、無言で水晶体に映り込んでくる。ファンタジーのような無色透明。悲しいわけでもないのに泣きたい気持ち。重力も時間もなくしていつまでも空に浮かんでいる群青の空に触れると、どこで覚えたのか分からない、あの火のような人肌の熱さを思い出して、手が痺れた。空の群青が、古い家の二階の和室に硝子窓を通してしずしずと染み込み、机や箪笥の影をビビットに浮かばせている。あの人は、誰だろう。あの人影は、何だろう。男の人か女の人か、若い人か老いた人か、匂いを嗅いでも分からない。ただの名前のない影になって、言葉もなく手を取る。ずいぶん細い指。熱いのか冷たいのか分からない。誰かの息遣いが聞こえる。何と言っているのか分からない。頭の上にぴんと張った記憶の糸が、皮膚を引っ張るように痛い。今、この胸をナイフで切ってみたら、どんな記憶が滲むのだろう。溺れる。熱い記憶に溺れる。誰かが導いている。手を握り、口づけをして、なめらかな心に錆びた釘を打って、いつまでも群青の海の中に閉じ込めてしまう。時計もない。言葉は無色透明になって誰にも届かない。呼吸はこの人に握られてしまう。瞳が抱く、たった一つの光。心臓は動いている。赤い血が、とんでもなく強いポンプの力で体中に流れていく。はぁ、と大きな溜め息を吐く。その溜め息もまた目の前にいる人に握られてしまう。名前も知らない、誰かの手に。首元の釦が外れる音を聞いた。瞳に宿るたった一つの光を見た。息ができなくても、なぜだろう、苦しくない。窓の外の暮れ残りは、恐ろしいほど長い間空に留まり、もう現実には戻れないほど、この胸を群青でいっぱいにしてしまった。胸に赤錆が溜まっていったのも、群青の暮れ残りが何よりも印象深いファンタジーになったのも、釦が外れた、その時だった。